「お金の話は卑しい」という呪縛
多くの日本人が囚われているこの言葉。しかし、その言葉を盾にして、私たちは大切な何かから目を逸らしていないだろうか。50代になった今だからこそ見える、あちら側とこちら側の決定的な違いについて。
最近、ふと思うことがある。世の中には「お金持ちは卑しい」「あいつらは何か悪いことをして稼いでいるに違いない」と考えている人が、少なからずいるのではないだろうか。
私の両親は自営業だったが、父は仕事場に子供である私が入ることを良しとしない人だった。家庭内でお金に関する話が出ることは一度もなかったし、当時の日本社会全体に「お金の話はタブーである」という空気が蔓延していた。その空気は、2026年になった現在でも、あまり変わっていない気がする。
しかし、命の次に大事だと言っても過言ではない「お金」について、真剣に考えることは極めて重要だ。なぜ世の中にお金持ちが存在するのか。そして、本当に「お金持ちは卑しい」のだろうか。
もちろん、詐欺まがいの手法で私腹を肥やす「卑しい種族」は実在する。私もそんな連中は軽蔑する。だが、正当な商売をし、リスクを取り、仕組みを理解して資産を築いた本物のお金持ちは、全く別の生き物だ。
彼らからすれば、「お金持ちは卑しい」と指をさす人たちのことなど、見下してすらいないだろう。見下すというのは、相手を意識している証拠だ。本物のお金持ちは、そんなことに時間を使わない。
ただ静かに、「ああ、この人はルールを学ぼうとせず、自分の不遇を他人のせいにすることで、今の自分を正当化しているのだな」と、淡々と冷めた目で眺めているだけだ。

そこには、同じ言語を話していても、決して成立しない会話がある。いくら言葉を尽くしても、相手からは暴投のみが繰り返される。やがてこちらは疲れ果て、静かにグラブを外し、それをそっと地面に置くことになるのだ。
冷たいようだが、これが現実だ。お金持ちから、お金のない人へコンタクトしてくることはまずない。何も得はないし、学ぶ意志がない者に教えたところで、時間という資産の無駄遣いだと知っているからだ。
結局、自分から「お金の話はタブーである」という扉をこじ開け、お金持ちが持っているが、決して与えてはくれない「リテラシー」を、自らつかみ取るしかないのだ。
私は、お金持ちと言えるほどのお金は持っていない。お金持ちの定義ほど曖昧なものはないが、リテラシーを身につけ、仕組みを理解し始めた今、かつて自分がいた「あちら側」の思考が、どれほど危ういものだったかは理解できる。
私はもう50代になった。病院で、20代の若い執刀医に自分の命を預けるのは少し不安になるだろう。お金の話も同じだ。50年生きてきて、酸いも甘いも噛み分けて、ようやく見えてくる「情報の重み」がある。
あなたの答えは、わからない。私の答えが、あなたの答えでもない。ただ一つ言えるのは、私はもう、あちら側の景色に戻るつもりはない、ということだけだ。
☕ 管理人の独り言
子どもの頃、父の仕事場が「聖域」のように感じられたのは、そこにお金という生々しい現実があったからかもしれません。でも、その扉を閉ざしたままでは、一生誰かのルールの中で踊らされるだけです。50代、今こそ自分の手でその重い扉をこじ開ける時だと、私は強く確信しています。


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